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CX3とGalaxyの眼

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    停滞気味だったフォトアルバム。RICOH CX3とGalaxy Note3で街や自然,B級の面白い写真をアップしていきます。 (iPod化したiPhone4Sも使いますがw)
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2016年7月 3日 (日)

昨年の8月以来の訪問

フェイスブック(FB)はまだビジネスよりの話なので、細々と続けていましたが、ブログは半年以上も間隔が空いていた事に、つい最近気が付きました(笑)

年明けからのゴルフ関係の仕事はオーナーさん側と経営に関して肌が合わずに試用期間の3ヶ月で満了してしまい、4月からは古巣に復帰したことはFBでは報告済みでしたが、ブログには書いてないですね。まぁオーラのあるボスで心酔する時期もありましたが、4年も付き合うとアラも見えるし、このままでは自分はこの人の劣化コピーでしかないなと思えてきたことも退職の理由の一つでした。復帰したことに、昔の僕を知る何人かは驚いてましたが、一方僕も、ボスの「劣化コピーになりたくない」と、多少ICTに絡む仕事でキャリアを積んだつもりでしたが、戻ってみるとボス自身が劣化してたということに今更ながら気付いた、というのが現在です。仕事に関しては今年もまだしばらく望まないのに紆余曲折がありそうです。

ゴルフ関連の仕事の際に変則シフトに対応するために購入したホンダの125CCのPCXというスクーターは手放さずに週末の足として使っています。なんせ燃費が40km/lほど走ってくれるので、電車、バスでの移動よりも経済的なこともあるし、ちゃんとした排気量のバイクのような乗り味は皆無だけれど、風を受けて走るオープンエアな感じ、リーンさせてターンする感じを味わうのは大学生以来で少しストレスの解消にもなっているので、残してよかったかなと思っています。

そんなわけで、タイトルにあるように昨日(7/2)父の故郷へプチツーリングしてきました。少し寄り道をしたので往復で180kmほど。空いた一般道ならこれくらいの距離はフツーに半日というか6時間ほどで走れますね

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立ち寄った先の一つが海住山寺というお寺さん。両親が結婚してまもなく父が修理にたずさわったお寺で、ここに住まいなら仕事をし、ここに居た時に僕が生まれたそうです。数枚の写真は雪化粧した境内で両親に抱っこされた写真や、借りていた宿坊なのか住職の住まいの一部なのかで知りませんが屋内ブランコに乗っている写真があります。

ここでの暮らしの記憶は残念ながら全く残っていないのですが、境内から加茂駅方面を見渡す風景をみると、かなり生活には不便していたのではないかと思います。ただそんな泣き言めいた話は母の口からは一切出なかったけれど。

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次なる寄り道はこちら、来たことがあるのかないのか記憶にないので、来たとしても幼少の頃なのではないかな?関西ではかなり古い本格的なダムのようです。日差しが強い中を走ったので、長袖のメッシュのライディングジャケットで日焼けを防止したのですが、グローブのベルトの隙間だけ、しっかり焼けてました。コレを見て半袖じゃなくて良かったと痛感しました。

まぁ、国道163号は木津を過ぎれば、ホントにローカル国道になるので、バイクで走るのは楽しいですね、それにワインディングはないので走り屋も来ないし、ツーリング気分で走るのにはいいコースかもしれません。

2015年12月14日 (月)

OCN モバイル ONEの使い勝手は?

結論から云うと、今のところ何の問題もありません。

12月 1日にWebから申し込みをして、まず、すぐにOCNのメールアドレスが付与されました。申し込んで1週間ほどで開通しました。アクティベートコードを入れての切り替えは1時間足らずだったので、通話に支障が出るようなこともなく行けました。夕方以降に切り替えると翌日になるような注意がありましたが、17:30頃に手続きをして18:00過ぎにはOKでした。

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1週間ほど使ってのデータ使用量は上の画像の通りです。スマホアプリから簡単に確認できます。3GB/月のコースにしましたが、自宅ではWiFi接続ですので、これで十分ですね。

スマホの調子は変わらずですが、当初WiFi接続がOFFにならず、あれこれいじり、OCNに問い合わせしようかと思ったのですが、SIMを差し替えてAvast Mobile Security アプリがシムが入れ替わったと警告を出していたことから、ふと思いついて再インストールしたら、直りました。ググっても「WiFi接続できない」というテーマ情報しかなかったので、ちょっと焦りましたが。付帯してきた050通話も試してみましたが、LINE電話よりはいくらかマシと言う程度で、ハウリングがちょっとひどい感じでした。まぁあまり使わないので気にはならないですが、音声通話が多い方は悩むところかも...

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あと、長男はすっかりやらなくなってしまった「モンスト」ですが、暇にあかせてやっていて、先日ついに「運極」というレベルのモンスターを1体、育成できました(笑)
とても手間がかかるので、まともに仕事をやってたら、なかなか作れないのですが、暇つぶしにやれる時間が持てた数少ない成果でしょうか(笑)いい歳をしてちょっと嬉しかったですね。

2015年12月 3日 (木)

『狂おしい夏』 #初月忌

11月3日、母 逝去。

  

もう少し、色々な想い出話を書こうかと悩みましたが、今日、初月忌を迎えました。これで追憶記はおしまいにします。母が幸せだったのか僕には決められませんが、今で云う「リア充」な一生を送ってくれたのは間違いなかったと思います。今日、頼んでいた本位牌も出来てきました。

  
  

10月中旬までは、見舞いに行くと今まで書いたような状況が続きました。昔の想い出話をしたり、早く退院できたらいいねとか... 最期まで希望は捨てないようにと。ただ、行く度に「大丈夫やから、仕事があるのにそんなにしょっちゅう来なくていいのに」と言われました。仕事してないんだけどね今はとは言えなかったけど...

   僕は一緒に行けなかったのですが、その間、妹が一度、自宅に連れて行ってくれたりもしました。何をすることもなく、所在なさげに骨董店の品を少し触ったりしていたようです。入院前の夏には妹の家に僕と長男も一緒に行って、そうめんをしっかり食べてくれたこともありましたが... 

10月下旬になって、少し痛みが出るようになり、モルヒネ等の緩和投与が始まりました。10月31日には義母や僕ら家族全員で見舞う機会も持てました。まだ意識はしっかりしていて、義母にちょっと説教じみた話(批判じみた話ではなく、何かことわざの講釈じみたこと)をしたり、寿司を注文して食べさせようとしたり、母らしい「良いかっこしい」振りでした。もっと、そんなことをさせてやりたかったのですが...

   翌日、少し疲れが出たようで、また痛みが出たのでそこからモルヒネ投与が本格化したようです。寝ている時間が多くなり、11月3日に僕が見舞った時は僕や妹が来た時に目を開いて、また眠るという感じでした。苦しそうな素振りは見せず、ただただ眠そうにしていました。妹に訊くと昨日、一昨日も同じような感じだったとか... しかし看護師さんたちは看取りのプロなのでしょう、また明日来ようかと思って病状を尋ねたら、「今日は居てあげて下さい」という。 

泊まりこむつもりでは来なかったのだけれど、妹が「今日はお兄がお母さんと一緒に泊まるよ」と耳元で大きな声で伝えたところ、大きく、しっかり、2回かぶりを振ったのが、僕らとの最期のコミュニケーションでした。それ以降は声を掛けても目も開けられないようでした。少し呼吸が苦しそうになり、夕刻にモルヒネではない緩和剤が投与されました。すぐに苦しそうな様子は消えましたが、しばらくすると下顎呼吸になりました。喉の動きが止まったのに僕が最初に気づきました。看護師さんを呼び、先生を呼んで下さいと伝えました。23時49分安らかに逝きました。

もうっ!正月は迎えられるはずじゃなかったの...母さん。

2015年12月 1日 (火)

初!MVNO にトライ!

久し振りに違うジャンルのタイトルを...

スマホをGALAXY NOTE 3に替えてから丁度2年が経過しました。2013年モデルですが、Android5.0にアップデートされ、ハードも3GB RAMに32GB ROM、CPUは少し旧いもののクアッドコア2.3GHzでメインカメラCMOS 1320万画素、インカメラ CMOS 210万画素、1920 x 1080 フルHDの解像度と実用には全く問題はない。バッテリは入れ替え可能なので、昨年、純正予備バッテリも購入している。

その前はiPhone4Sを使っていて、5になる時に大画面が出ていたら、iPhone継続だったのですが、残念ながら6まで出なかったのでスイッチしたわけです。なので6S plusは当然気になったのですが、ハード面の差はそれほど大きくない割には以前はバカにしていたお財布ケータイ機能は思いのほか便利で、楽天EDYとモバイルSuicaは手放せません。モバイルSuicaは関西でもJRはもちろん私鉄やバスでもフツーに使えます。ワンセグもイザというときは心強いですしね。東日本大震災で痛感しました。

さてフツーの通話はあまり使わないので、現在の月々の費用は多くて10,000円、ほとんど通話利用しない月だと6,000円台に収まっています。自宅ではもっぱらUQモバイルのWiFi利用ですね。
なのでMVNOに俄然興味が湧いてきました。UQモバイル WiFiはPCでも使っているので要継続なので、データ3GBでMNPして電話番号が維持できればMVNOで充分行けそうな気がします。

幸い、Docomo端末なのでMVNO業者は大手通信系がいくつもあるので、信頼感と直近の通信速度向上のうわさからOCNのサービスを選びました。今日、手続きしたのでSIMを差し替えてみて、また感想をお知らせしますね。問題なければ家族のスマホも順次、切り替えするだろうな。

2015年11月29日 (日)

『狂おしい夏』 #9

9月5日のお見舞いの時に微笑ましくも少し困った出来事があった。僕の妹の娘である姪が母に癌であることを告知してしまったのだ。術後、母は事あるごとに癌ではないのかと僕と妹に尋ねていたが、告知のタイミングを決意できない僕たちは「腸閉塞の危険があるから、小腸と大腸のバイパス手術をしたんだよ」と半分の真実だけを告げていた。

妹の見舞いに時々ついてくる姪は少しおしゃまな中学2年生で、妹夫婦の会話にも対等な感覚で加わるようなところがあって、妹自身もそれを拒絶はしない接し方をしてきていたらしい。病状についても彼女の夫と話す場に姪は入っていたようだ。その時に癌と聞いたことを僕と妹が副院長と話をしに席を外した際に、正直に母に伝えてしまったらしい。心配した妻から僕はあとから聞いた。さすがに末期癌であるとは云わなかったらしいが、でもそれ以降は時々、空を見つめて何かを思案するような態度が母に見られるようになった。それはホスピスに入ってからもしばしば見られた。

母は姪が教えてくれたと僕や妹にも確認するように話すので、「腫瘍はあったけど歳も歳やし進行も遅いから心配しなくていいよ」と半分嘘をついた。ホスピスに移るに際しても、延命治療ではなく緩和ケア治療になることを本人に伝える要はあるらしく、医師は告知することを望んでいた。ただ認知症があるので、実際には僕ら兄妹の承諾でよかったので僕らが母に伝えるタイミングを失していたに過ぎなかった。

結果として姪は間違ったことをしたわけではない。僕も妹も彼女を叱るようなことは一切なかった。西賀茂のホスピスに移っても、時々、認知症が顔を出すにしても意志をはっきり示せる母は面会の度に退院したい、いつ退院できるのということを僕らに尋ねてきた。しかし、「お母さん、ちゃんと食事やら身の周りのことができるくらい元気にならな、それから退院のことは考えよう」と誤魔化すしかなかった。そんな感じで1ヶ月が過ぎ、気が付くと狂おしい夏の暑さもすっかり過ぎ去っていた。

2015年11月28日 (土)

『狂おしい夏』 #8

修学院(京都市左京区)に引っ越したのは、父が心筋梗塞で急死した1980年の6月からしばらく経ってからだった。葬儀の後で今後の親権だとか自宅の相続とかで、再入籍をしていなかった母と僕たち兄妹は親戚と称する人たちの非難に満ちた目に晒された。死因を母にもとめるような発言の矢面に母が延々と立たされ悔し涙を流していた。

一方的な話し合いの最後に、元々、仲人を務めた父方の親戚が偉そうに「後見人はワシがやってやる、財産の管理もワシがみる」と言った瞬間に、僕の堪忍袋の緒が切れた。「母は僕たちの実の母です、後見人なんて必要ありません」と涙声だがハッキリと言い切った。
誰も何も言い返さなかった。しばらくの沈黙の後、顔を潰されたその男は「好きにせい!なら、なにがあってもしらんぞ」と捨て台詞を吐いて立ち上がると、その尻馬に乗るように父方の長男の嫁が鬼のような形相で「迷惑かけんなや~」といってそれに続いた。

一方、父方の次男の奥さんで学校の先生をしている叔母さんは遺児となった僕らを励ます言葉もすら出てこないような事の成り行きを苦々しく思っていたのだろう「〇〇ちゃん(僕のこと)えらいわ」と傍に来て囁いて帰っていった。

それから数ヶ月して引越しの後、父の兄弟の長兄が詫びを入れに何度か母を尋ねたようだった。僕とも話をしたいと母を通じて言ってよこしたが、僕は決して許せなかったし、会うことはなかった。またしばらくすると、二百万円ほどを包んで父方の相続放棄のお願いにも来たらしい。僕は「ふうん」としか云わなかった。それで絶縁ということになったのだろう...

浪人中にそんなことがありながらも、その年、僕はなんとか希望の大学に合格した。本当なら私大に行けるような状況ではなくなるはずだったが、母は僕が高校に上がる頃には祇園でホステスをしていたようだった。僕らが帰宅し夕食の用意を終えると仕事に出掛け、夜遅くに帰宅するような日々だった。でもちっとも嫌ではなかった。まぁもっともその当時はクラブで働いてるとは知らなかったのだが...
父はちゃんと生活費・養育費を入れてくれていたけれど、公務員の収入では余裕まではなかったのだろう。離婚した後、洋裁くらいしかできない母は水商売の道に入っていたようで、それを再開したようだった。

そして、僕が大学へ入る前には独立して店を構えるまでに成功していた。それからバブルの頃までが母の仕事上の絶頂期だった。下鴨に割烹店を出したり、趣味が高じて古美術店を出したりで、しまいには京都新聞の「京のおんなシリーズ」という夕刊 第一面の囲み記事に顔写真入りで掲載されたりもした。(残念ながらその掲載紙は見当たらない)

いまここに書いたような話が記者には興味深かったのだろう。お陰で僕はいわゆるボンボン的な学生生活を楽しむことができたのだ。それが良かったかのか悪かったのかはわからないが母にはとにかく感謝しかない。

2015年11月27日 (金)

『狂おしい夏』 #7

万一ということもあるし、元気なうちに会っておいて欲しかっので、9月5日の土曜日に手術を明後日に控えた母の見舞いに子どもたちを連れていった。妹と姪も来てくれていた賑やかな面会に母はうれしそうだった。

7日の術後、容体の急変に備えて、母と僕はナースステーションとドア続きの部屋に寝かされた。宿直看護婦たちのおしゃべりがうるさくて、午前3時過ぎに手洗いに立った時に軽くクレームを入れてやったがそれも束の間、小一時間も静寂は続かなかった。

おかげで朝方まで寝付けずに物音で目を覚ましたら9時を廻っていた。交代した看護婦さんたちに、呑気な息子の姿を晒す羽目になってしまった。困るね相手が代わってると...

手術そのものは副院長の言ったとおり、さほど難しいものではなかったようだけれど、兎にも角、術後は順調に経過してくれた。さすがに手術翌日は傷口が痛むようようだったけれど、人工肛門も胃ろうも必要なく過ごせるのは人としての尊厳維持にはありがたいことだと思う。

母は医師からも看護師からもプライドの高い人と捉えられていたようだ。僕自身はそんな風に思わないが、母がなんとなくそう云われるような言動を取っていたことは想像できなくもない。プライドが高いというよりは「ええかっこしい」の方が似つかわしいと思うけど...

開腹手術であったので腫瘍の確認も行われた。残念ながら診断に変更はなく、はっきりと今後は緩和ケアの主眼をおいた治療になることを覚悟してくださいと念を押された。ここは急性期系病院で母の長期入院は受け入れてもらえないので、ホスピスを幾つか紹介頂くことになった。

13日の日曜日には長らく疎遠状態にあった大阪の叔母(母の妹)がいとこ二人を連れて、見舞いに来てくれた。当日僕はある大学系の創業支援施設への就活面談を済ませた後に合流した。母はよほど懐かしかったのだろう、かなり長い時間を面談スペースで過ごした。僕が高校生の頃に抱っこしていた、いとこがもう40歳を越えていた。余計な心配だが、かなり美人に育ったのにまだ独身だとか...

16日には妹がホスピスの候補先から絞り込んだ西賀茂の病院へ面談に出掛けた。緩和ケアとはホスピスとはどういうものか改めて説明を受けた。そんなことはもうとうにわかっていることだけど、おとなしく聞いておいた。空きが出たと後日連絡があり、9月25日に転院が決まった。

母はいずれ自宅に帰るものと思っていたので転院を渋ったけれど、「まだ自炊とか無理でしょ、もう少し体力が戻るまで、転院先で療養してもらうよ」と押し切った。妹には帰りたいとか何かと注文をつけたりしたようだけれど、不思議と僕が云うと納得はしてくれるみたいだった。認知症の症状が出ていることが、こういう告知には逆にありがたかった。

母の認知症の症状は、今日が何日かわからないとか、誰がいつ来たとか、ごはんを食べたとか食べないとか直近の記憶ほど抜け落ちる。昔話はなんの支障もなくできるのに不思議だった。それと直近のことでも執着している事柄ははっきり覚えている。例えば母の不調を知らせてくれたNさんが最近、交通事故で奥さんを亡くしたことだとかは何度も口にする。

面白いのは何度か引っ越しをしているので、今の住まいがどこか、はっきりわからないみたいで、すべての家が今も住まいのようなことを口にする。僕も修学院の家は良かったねと話を合わせる...

2015年11月26日 (木)

『狂おしい夏』 #6

僕が小学4年の夏に母の姿が見えなくなったことがあった。父の郷里に僕ら兄妹は遊びに行く体で預けられ、その間に父と母の間でどのような話し合いや諍いがあったのかは知らない。結果として離婚し母は僕らの目の前からいなくなった。もう遠すぎる昔なので記憶はわずかだが、とにかく悲しくて寂しかったこと、母のことを時折思い出して激しく泣いてしまったことは覚えている。そして少しずつ、その状況を受け入れフツーに生活が送れるようになっていった。おとなしくも天真爛漫だった性格に少しずつ陰が落ちるのと引き換えに。

そんな母が中学1年の春休みに入る頃、家に帰ってきた。見慣れない薄紫の2tトラックが家の前に停まっていて、学校帰りの僕がちょうど玄関先に立った時に荷台の陰から母が姿をみせた。その時の母の笑顔は今でもハッキリと覚えている。

母の話だと、父は男手ひとつで3年余りがんばったけれど、さすがに疲れてしまったみたいで、親戚筋がヨリを戻すように諭し、それを父が受け入れて、もう一度同居するなったようであった。公務員なので残業はほとんどないのだろうが、確かに欠かさずに僕らの食事の用意や洗濯、掃除なんかの家事をこなすことはかなりしんどかっただろうなと、今なら感謝の念が湧く。そういえば父方のお祖母ちゃんが、家政婦さん代わりに来てくれていたことも何度かあった。おそらく夜の人付き合いの多くも断っていただろうし、夏休みと春休みに父方の田舎に預ける数週間が少ない育児からの開放だったのだろう。

「母帰る」とちょうど習ったばかりの菊池寛の戯曲みたいだと、母の帰宅を一人ほくそ笑んでんでいたけれど決して二人が夫婦に戻ることはなかった。あるべき家族が全員揃った食卓が少し恥ずかしくも嬉しかった記憶はあるが、そのように食卓を囲むことは数ヶ月も続かなかった。再同居の最初から父と母の小さな口論は続いたし、僕ら兄妹の目にも依然、不仲なのは一目瞭然だった。

記憶にはほとんどないのだけど小学生の頃、母は頻繁に僕らに電話を掛けてきて、学校のことやら生活のことやらを話していたらしい。ある遠足の日の朝、母が弁当を作って届けにきてくれた。父は「ちゃんと持たせた。そんなものは要らん、持って帰れ!」と怒鳴り、母と口論になった。僕は二人を見つめ泣きながら「両方、持って行く!」と母の弁当をひったくるように受け取り、家を飛び出して学校に向かった。見た目も味も母の弁当の方がずっと上だったけど、父のも残さず食べたんだ。

父は母を家に入れたことで、家の中での所在をどんどん失っていった。そりゃ、子どもは母親が好きだし、待ち焦がれていた母が帰ったのだから、どんどん甘える。母と口論する父はますますヒール扱いされるようになり、数ヶ月すると母と父の立場が入れ替わった。徐々に父が帰らない日が増え、その間隔は3日に1度から、週に1度、10日に1度とだんだん伸びていった。その間に家の増築工事なんかもあったけれど、増築した2部屋のスペースは僕の部屋と妹と母の二人の共同部屋になった。そして僕が高校に上がる頃には父の居場所は完全になくなった。少しも寂しくないのが不思議だった。

2015年11月25日 (水)

『狂おしい夏』 #5

検査入院しての精密検査の結果はある程度予期していたけれど、それでも思った以上に悪い結果だった。かなり大きな大腸がんでステージⅣ。肝臓にも3箇所ほど転移が認められる。肺など他への転移も充分考えられるという診断を副院長から聞かされた。

さらに悪いことに、腫瘍はは横行結腸部にあって大きな動脈にからみつくような位置にあり、摘出は不可能。肝臓への転移もあり、こちらも進行しているが、体力が低下していること、75歳という年齢ということもあり、抗癌剤治療すら難しい。要は手遅れという宣告だった。腫瘍により大腸の閉塞の危険性があるので、ステントを入れるか患部を避けて小腸と大腸のバイパスをつくる手術を明後日に行います、これをやらないと、いつ腸が破裂するかわかりませんとも云われた。

やっとのことで、「その手術をすれば容体はどうなるんですか?」と質問してみた。「腸が破裂して一気に悪くなることは避けられます。ただし、お正月は迎えられるでしょうが...それ以上はなんとも言えません」と副院長は静かに話してくれた。妹が涙しながら言った「母に痛い思いだけはさせんといてやって下さい」というのが僕らの精一杯の返答だった。

バイパス手術は上手くいったが、検査入院から手術当日までの3日間にも環境が変わったせいだろうか、母の認知症は悪化していたようで、フロアを徘徊したり、精算して帰ろうとしたり、看護師さんを少し手こずらせたらしい。病院からは手術当日は泊まりこんで付き添ってほしいと言われ、その役はさすがに僕が引き受けることにした。

病院が用意してくれた、まるで救急車のストレッチャーのような寝台で、母と一緒の部屋で眠ることになった。何年ぶりなんだろうか?同じ部屋で寝るというのは...

2015年11月24日 (火)

『狂おしい夏』 #4

春先に妹から連絡があった時は、母の知り合いのNさんから「お母さん、あまり体調が良くないから、時々見てあげてくださいね」と云われたこともあり、彼女が内科に連れて行って、血液検査したところ、貧血状態がひどく、認知症の疑いもあるというものだった。妹はときどき母の様子を見に行き、体調が悪くて自炊が出来てなさそうだと、お弁当を届けたり、通院に付き添い、点滴や診察を受けさせてくれていた。

そうこうしている間に今年も夏を迎えていた。

その頃の私は骨折入院とその後の通院リハビリ治療の毎日で母への対応は大阪住まいということもあり、京都の妹にすっかりまかせっきりだった。なので断片的な情報しかなかったけれど、母は意志もはっきり示しており、「病気じゃないのになぜ通院させるの?」と反発されることが多かったようで、通院させるのも大変だわと愚痴のLINEをよこしてくれていた。私が電話しても、「全然平気よ、心配しなくていいわ」と気丈なものだった。

8月末、妹からLINEではなく電話で連絡がきた。MRI検査など精密検査の結果からは要介護判定の認知症で血液の状態が良くないので、点滴と投薬で様子を見るが、いずれはどこかの施設に入らないといけないという話だった。さらにというかこちらのほうが重大だった。「癌の可能性があるって。内臓の精密検査も勧められてん」と...

その頃の私は自分の不運を逆恨みしながらも、目の前の自身の骨折治療や就活に気を紛らわせる生活を送っていたが、さすがにこの知らせはショックだった。妹は検査入院させるのも一苦労だったようだけど、母本人に自覚症状もあるので最終的には受け入れてくれた。見舞った母はかなり痩せていたがごく普通に会話はできるし、「仕事を休んできたの?大したことないのに気を遣わなくてもいいわよ」と話してくれていた...

病院の懇談スペースからは送り火の舟形が目の前に見えた。

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